|
|
|
|
|
|
|
菜種梅雨というのか、雨つづきの今日この頃、
皆様におかれましては、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
シェルパ・インベストメントの川本でございます。
本日のメルマガは、
昨年永眠された日清食品の創業者、
安藤百福氏の創業時代の話をお送りいたします。
ご一読頂ければ幸いです。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
【無一文で「食」にひらめき 四十八歳の出発】
二十二歳で独立して、メリヤス製品の販売会社を設立。
以後、様々な事業を興していく。その一々は割愛するが、終戦直後の一時期は
手持ち資産をいろいろと整理したせいもあって「日本一の金持ち」と
マスコミなどでハヤシ立てられた事もある。
が、一九五六年、設立された信用組合の責任者になり見事に失敗、無一文になる。
そのお陰でチキンラーメンの発想と事業化への取り組みが始まったのだから人生は面白い。
無一文になって、さて何をやるか。年齢も四十代後半。ここは正念場であった。
人間の営みに絶対不可欠なものに商いのベストセラーがあるはずだ、そう考えた。
「食」がそうだ、と思った。
戦中戦後の体験から「食」の重要性には人一倍、私は関心を持っていた。
一九四九年には病人食の事業化を思い立ち「国民栄養科学研究所」も設立していたほどだ。
私はラーメンの工業化、その条件を一つ一つ確認していった。
辿りついた条件は五つだった。第一に、おいしい事。
以下、「保存性がある事」「便利である事」「安価である事」そして、「安全である事」。
条件に整理・確認を終えた後は、いよいよ、やるだけだった。
「えっ、ラーメン屋をやるんですか」と誰も本気にする者はいなかった。
ラーメンといえば屋台。工業化などの話をまともに取り合ってくれる者はいなかった。
自宅の庭を"試作場"にし、第一歩は製麺機の据つけだった。
中古を見つけて、自転車の二大に荷台に積み、大汗をかきかき庭に運び入れた。
かつては外車に乗り、大勢の使用人に囲まれていた私を知る人は、大きな荷物をぶら下げ、
自転車を懸命にこぐ姿を見て、「落ちぶれて、かわいそうに」と思ったに違いない。
が、私は一向に苦にはならなかった。
それには夢があり、執念があったからだろう。
まさに試行錯誤の連続だった。前述の"五つの条件"を満たす麺製品に先行者はいない。
見よう見真似するお手本があるはずもなかった。
全てが自分で創意工夫するしかない挑戦だった。
めんの原料配合は実に微妙である。小麦粉、水、グルテンという植物性タンパク質、
卵、カタクリ粉―高熱の油、低熱の油。
ラーメンの工業化に考えられるありとあらゆるものとの格闘に毎日明け暮れた。
スープ作りのチキンとの格闘。自宅は戦場だった。
家内も手伝ってくれた。幼い子供たちも時として手伝ってくれた。一家総動員だった。
中古の製麺機を据えてから一年ほど経ち、やっと光が見えて来た。
油熱処理したあと、湯をかけたときの戻りもほぼ満足できる。
今日という即席麺の原型が出来上がるようになったのだ。
チキンを使ったスープの味についても自信の作になっていた。
四十八歳からの、この創業を「遅すぎた出発」と形容する人もいたが、私にすれば、
決して「遅すぎる」とは思わないのだ。
それどころか、まるで点の配剤かのように「時代も味方してくれた」。
といえば「運がよかったのだ」という人がいるかもしれない。
が、私はそうは思わない。一ミリ、一センチの前進に頑固に執念深く努力したからこそ、
運が訪れたのだ、と私は信じている。
仕事とは何か。創業とは何か。
「人のやらない事をやれ。やれそうもない事を成し遂げるのが仕事というものだ。」
――私は今でもそう思っている。
(日経BP社 「創業者の精神」 日経ベンチャー編 より)
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
戻る
|
|
|